知っていて行ったわけではありません。
鳥を探していて通りかかったら目に入りました。
右の白いものが案内板です。曽我殿のお墓。 地元では曽我どんのお墓と呼んでいるようです。
もうすこし拡大。
まさかと思いきや、やはりあの有名な「曽我兄弟の仇討」の曽我殿のようです。
曽我兄弟の仇討は鎌倉時代のことです。本当の墓は、仇討現場に近い静岡県富士宮市にあるはずです。
それがどうしてここにも?
階段を上って行くと山の中腹にありました。
上り詰めると大きな五輪の塔などいろいろ。
一番立派な石柱で囲われたのが曽我どんの墓のようです。
左と右が曽我十郎と五郎の兄弟の墓。そして真中は虎御前と言い伝えられているようです。
地元では大切にされているようで、今でもこのように婦人会の手ぬぐい?が下げられておりました。
ここの地名は田島地区です。
佐土原藩は、曾我兄弟の仇討の相手の工藤祐経の子伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられたことが始まりのようです。その後何代にも渡り佐土原伊東家が続く中で、薩摩藩との関係もあり、また身内の権謀術策もあり、ある時代に伊東家の墓と言えなくなり、地元の人が曽我どんの墓ということにして守ってきたのではないでしょうか。
墓石に問いかけても何も語りません。