先日、西都市尾八重の大椎葉(おおしいば)に有楽椿を見に行ったとき、その奥に小椎葉(こしいば)という集落があって、そこには小学校もあって今もその建物が残っているという話を通りかかった軽トラックの人に教えてもらいました。
その日は時間がなかったので改めてその小椎葉に行ってみました。
一ツ瀬川左岸を走る米良街道の瓢箪渕(ひょうたんぶち)という小さな集落から山道に入り狭い坂道を大椎葉の方に上って行きました。
そして、前行った大椎葉を過ぎてしばらく進むと数軒の廃屋がありました。
その付近に集落があったことが伺えました。
そして道路のすぐ右に壊れかけた大きな建物。
そこが小学校かなと思いました。
横に回ると随分荒れています。
校庭と思しき荒れた平地に石碑が何基か建っていました。
奮起・・・学校らしい石碑。右は国旗掲揚台かな。
その近くにあった石碑。西都市小椎葉小学校跡 昭和55年3月31日
間違いありません。学校跡です。
約40年前の閉校のようです。
またその近くには
「創立百年に當り之を建立する 小椎葉小学校卒業生一同 昭和52年11月6日」
この時の百年前は1877年、明治20年です。
そのころに学校ができたのですね。ということはその随分前からこの集落は存在していたということ。
ここは小椎葉小学校の玄関です。
ぞうきん・・・小学校らしい。
2つの教場があったようです。ここは廊下。
教場
もう一つの教場の黒板。卒業生が時々やってきてその思いを書いたようです。
昔通っていた小学校、残っているなら私も行ってみたいです。
表彰状。
この学校で100年以上にわたり授業がなされていたのです。
なんだか感慨深いものがあります。
ここの卒業生は今、一体どこでどんな生活をしているのでしょう。
小学校跡を見た後、昔の人の住んでいた気配を求めて、ゆっくり付近の森を歩いて回りました。古い住居跡が数軒見つかりました。
そして、子供たちがワイワイガヤガヤと活気のあったころの集落を思いながら下山しました。
下山の途中の道路脇に古いお墓と思われるものが2基建っていました。
車を止めて見てみました。
左の方には寛政12年と彫られています。寛政年間と言えば江戸幕府11代将軍
徳川家斎の頃です。随分昔です。
本当はもっともっと昔からこの付近には人が住んでいたのかもしれません。川があって急峻な岩場があって、洞穴があって・・・もしかしたら縄文時代から・・・。私に残っている縄文魂の血が騒ぎます。
今私が住んでいる街を歩いていても、そんな昔に思いを馳せるようなものは残っていません。山奥に行くとこんなものが残っているなんてすごいです。